Volume.38 SPECIAL CONTENTS

七軒目の家

GARDEN HOUSE

建築デザイナーの井手しのぶさんが
「終の住処に」と建てた自身7軒目の家は
鎌倉市内の高台の、緑に囲まれた
18坪の小さな平屋。
「理想は、コルビュジエの
“レマン湖畔の小さな家”。
自然と一体化した感じの、
地面から生えてるみたいな家がいい」
そんなイメージどおりの、
周囲にすっと馴染んでどこか愛らしい住まいで

1人と、1匹の犬と、2匹の猫が
仲よく、心地よく暮らしている。

七軒目の家

Architect

井手 しのぶ さん

1961年東京生まれ。独学で建築デザインを学び、建築デザイナーとして手掛けた物件は200軒以上。PAPAS HOME代表を退いた後にAtelier23.を主宰して活動を継続中。「家を建てるうえで土地は大事。打ち捨てられたような“色気のある土地”が私は好きです」

緑あふれる高台の
地面から生えてるみたいな
小さな家

まず、井手さんのマイホーム遍歴を振り返ってみる。
1軒目は、長男誕生を機に購入した建売住宅だった。あれこれ手を入れてみたものの、「どうもピンとこなくて」売却。セミオーダーした2軒目は気に入っていたが、長男の通学事情を憂慮して学校近くに転居。3軒目は、当時としてはかなり珍しい無垢材や漆喰をふんだんに用いた住まいで、この家を契機に専業主婦だった井手さんは建築デザインに携わることになる。バブル期には4軒目となる別荘を箱根に建設したが、数年後に離婚が決まって手放した。5軒目は中古住宅を購入してリフォームを繰り返し、それを売って海沿いに建てた家が6軒目。愛着はあったが、台風の被害や塩害のメンテナンスに手がかかり、「こりゃ体力が続かないと住めない」と痛感。住宅ローンの残高など現実的な諸々を算段し、手元に残った資金で終の住処を手に入れようと決めた。

建てるなら平屋。思う存分に庭仕事がしたい。となると、ある程度の広さは必要だ。だが、住み慣れた鎌倉周辺は予算的に難しい。しかし、先行きを考えると、車なしで生活できないような田舎は厳しい……と土地を探していたときに見つけたのが、現在の場所だった。鎌倉市内の88坪で広さは十分。大幅に値下げされた直後で価格も申し分ない。「掘り出しものが見つかった!」とすぐさま購入を決断した。
初めて現地を訪れたとき、細い坂を上った先にあらわれたのは鬱蒼とした荒れ地だったが、井手さんは「私の理想!」と歓喜した。開墾や整地に手間はかかったが、そこはやはり理想の場所だった。

凹凸のない1LDKに
さまざまな工夫を凝らして
ローコストも実現

小高い丘から小径を下れば10分で海に、もう一方は20分で鎌倉駅に着く。坂の下のバス停までは約8分。いつか車を手放すことになっても十分に歩ける距離だ。「適度に都会、適度に田舎」で、周辺は緑が多く閑静で、「人混みは嫌い。緑が好き」という井手さんにぴったり。  建築費用を予算内に収めるため、設計はシンプルな1LDKに。コストダウンできるうえに掃除も簡単だという理由で、寝室以外の床はモルタルで、水周りは1カ所に集約、大開口部は南西に1つ、など随所に工夫を凝らした。
「窓ってけっこう高いものだし、掃除も大変。でも、この大きな窓だけ拭いておけば、きれいな雰囲気が出せるでしょ(笑)」

玄関扉は大型の回転ドア。ドアノブはパリで購入、支柱は知人のアイアンワーク作家に依頼。玄関扉を開けた目の前に置かれたテーブルはルーマニアのアンティーク。テーブル上の照明はフランスの蚤の市で購入。 キッチンは、「ガゲナウのシステムキッチンがかなり安くなっていたので買った」ものの、サイズや動線などが気に入らず、何度も改修してようやく納得のいくかたちに。

回転する玄関扉を開けると、土間がそのままキッチンに続いていて、玄関はない。「狭い家だからスペースもないし、必要性も感じないから」という理由だが、実際に暮らし始めてからもなんの問題もないそうだ。  必要なものがきっちり納まるように計算されてコンパクトだが収納の多いキッチンは、何度も改修して現在のスタイルに落ち着いた。
家のどこにも、洗面や浴室まで拝見しても、いわゆる〝生活感〟を感じないのだが、「生活感はみんなしまってあります」と井手さん。引っ越し前に「しまえる分しか持たない」ときっぱり決意し、家具、食器、洋服、観葉植物、本やアルバムまで、相当な量を処分した。本当に必要? 本当に好き? という自問は、快適さのために欠かせないステップだ。

フレンチブルドッグのまーくん、捨て猫だった寅、ブチャもお気に入りのソファは、ベッドフレームにソファ用のクッションを並べたもの。リネンのクッションカバーは井手さんが縫ったそう。「前に使っていたソファはまーくんがホジって大きな穴が空いちゃって。これなら穴が開いてもクッションを1つ替えればいい」

失敗と取捨選択を
繰り返して
今の自分と住まいがある

フルオーダーで建てた3軒目が完成したとき、友人に「同じような家を建ててほしい」と懇願された。大工だった夫と友人宅を建設すると、その家がさらに評判を呼び、結局、夫婦で住宅会社を設立することになった。井手さんは主にランドスケープを担当していたが、離婚後は家のデザインも経営も担った。その後、会社は人に譲ったが、今も仕事は続けている。
建築は独学で学んだが、もともと緑や庭いじりが好きで興味のある分野だった。「建築系の本、特に洋書が好きで。昔はすごく高かったけど、でも専門店に通って、買い集めて、見ながら妄想するのが楽しかった」。そういう時間によって目を肥やし、もちろんセンスという素地も大いにあって、紹介や口コミで依頼の絶えない建築デザイナーの今があるのだろう。
それにしても、家中どこも素敵なアンティークのインテリアばかり。家具、観葉植物、珪藻土の壁にかけられた鏡やアートまで、絶妙なバランスで配されて魅力的な空間になっているが、「いや、インテリアでも洋服でも、私も相当買って、相当失敗してきましたよ。で、失敗して取捨選択して今があるんです」。
そういえば、取材中に何度も、「いまいちピンとこなくて」「自分の中でしっくりしなくて」といった言葉を耳にした。自分の感覚や直感をないがしろにせず、小さな違和感を見逃さないこと。納得できるまであきらめず、妥協しないこと。そう簡単ではないが、心地よくやさしい空間をつくるためには大切なことなのだ。

幅3mの引き込み窓は知り合いの建具職人に製作を依頼。開け放した先の、庭と畑の伸びやかな緑が気持ちいい。夏は蚊が多いが、開口部前に蚊取り線香を置いておくと室内に侵入しないので網戸はない。台風に備えて雨戸は付けた。「掃除はきらい」と言いながら「犬の鼻の跡がベタベタつくのは気になるのでそこは拭く!」。庭を正面に眺めるソファが井手さんの定位置。

寝室の壁一面に収納棚を設置し、籐のバスケットなどをうまく活用。「プラスチックが出ていると落ち着かないので、見えるところに出していない」。 浴室のドアはインド産のチーク材。照明は「ずっと昔にコンランショップで買ったもの」で、「でっかいシャワーはフランスから担いで持って帰ってきた」。バスタブやタイルは「普通に売ってる日本製」なのに特別感がある。

四季折々に
庭仕事を愉しみながら
より簡素な暮らしへ

「いつもちょこちょこ、なんだか動いてる」という井手さん。よほどの悪天候でないかぎり、ほぼ庭にいる。「やっぱり緑があると落ち着くし癒やされる。私にとって緑は大事」と、バラや藤を植え、レモンやイチジクなどを手入れし、コンポストで発酵させた堆肥やタンクに溜めた雨水を畑に撒き、トマト、ゴボウ、玉ネギ、小松菜など多くの野菜を育て、料理する。リビングから畑へ続くデッキも自作で、冬が来る前には薪ストーブ用の薪も割る。
「こんなに庭いじりをするようになったのはここに来てから。雑草がすごくて大変ですけど、でも楽しいの」

今後のことを尋ねると、独立した息子さんが帰ってくる予定だという。実は、フレンチブルドッグのまーくんが闘病中で、息子さんがサポートに入るそうだ。といっても同居ではなく、 「庭に息子の小屋を建てる」という。シャワーや小さなキッチンもある7坪弱の住まいは今春にも着工予定で、見積もりや測量、建築確認などが進行中だ。
さらに、「もっと簡素に暮らしたい」という答えも。「最近、畳と襖とちゃぶ台、みたいな和な感じがいいなって。ただ、畳を敷くには床を剥がさなきゃいけないし、今あるインテリアはほぼ置けなくなるので、どうしようかと思ってますけど」と迷いつつ、「なんだかんだ言ってここは住みやすい。いろいろやりながら、きっとずっとここにいると思います」と笑う。
どうやら7軒目の家は、本当に終の住処になりそうだ。井手さん流の和の風情あふれる住まいも、きっと素敵だろう。

※取材時はとびきりのサービス精神で迎えてくれたまーくん。残念ながら2021年11月23日に旅立ったそうです。