Volume.40 SPECIAL CONTENTS

絵と本と音楽のある家

life with Art.

慌ただしく過ぎ行く毎日の時間のなかで
ちょっとだけ足をとめてみる。
ほんの一瞬、別世界に想いを馳せてみる。
するとなぜだか
尖っていた心が穏やかになったり
沈んでいた気持ちが少しだけ上向いたり……
絵や本や音楽には
そんなチカラがあるのかもしれません。
アカデミックでハードルが高い
何をどう選んでいいのかわからない
そう敬遠している人も少なくないけれど
アートってもっと自由なもの。
今回は、絵と本と音楽に囲まれた
小川博さん・智子さんご夫妻の住まいを
覗かせてもらいました。
繰り返す毎日を愛おしむ心の鍵を探します。

絵と本と音楽のある家

かなりこだわって色を指定したというレッスン室の壁の赤色が印象的。インテリアやアートの嗜好は似ている二人だが「音楽は別」とのこと。 「ドイツやロシア系のちょっと硬めのもの、特にワーグナーが好き」と小川さん。ソプラノ歌手の智子さんは「イタリアやフランスも好きなんです」。

赤と白のコントラストも絶妙な
ゆとりを実感する住まい

「精神的にも物理的にも、贅沢って”スペース”だと思っているんです」という小川博さんの言葉どおり、軽井沢の閑静な別荘地にある小川邸は空間的にも心理的にもゆとりが感じられる端正な住まいだ。
グランドピアノが置かれた部屋はソプラノ歌手である妻の智子さんのレッスン室で、屋根の傾斜を生かした高い天井とオーク材の床のあたたかな質感、四方の壁のうち一面だけに施された上品で深みのある赤色、白い壁面に飾られた大小の赤い絵画のバランスが絶妙。
「赤色のもつエネルギーが好きなんです」と智子さん。赤が発するパワフルさと同時に、相反する静謐さにも満ちて、なんとも豊かな心持ちになれる空間だ。

玄関からリビングへ続く廊下は小さなギャラリーのよう。廊下に書棚を、というプランもあったが勘案のすえ却下、本も大量に処分したという。廊下の絵は子供地球基金のパステル画が中心。「このスペースでリッチな感じのものはちょっと重いかも」と智子さん。作品のサイズや作風とスペースのバランスは大切。

リビングのコーナーを開口部にしたのは小川さんのこだわりだった。その結果、開放感と眺望は格段に高まり、コーナーを回るように開閉する2色のカーテンを閉めた状態でも「絵になる」。ちなみに「あのギュっていうのが僕は嫌い」でタッセルはない。キッチンカウンターなどに置かれたクリスタルは、もちろんバカラ。

シンプルで端正で
随所にアートが息づいた
潤いのある暮らし

「デコラティブなものは好きじゃないので、家もシンプルにしたくて」と小川さん。たしかに小川邸はシンプルな構造の平屋で、室内もすっきりと整えられている。
邸内は隅々まで目配りが行き届いていて、玄関を入った瞬間から、インテリアはもちろんさまざまなアートやオブジェなど、夫妻のお眼鏡にかなったものたちに目を奪われて、ついつい見入ってしまう。
それもそのはず、小川さんはクリスタルのラグジュアリーブランド・バカラの日本法人であるバカラパシフィックの設立に参加し、長年にわたり代表取締役社長を務めた人物。バカラの歴史的・芸術的価値を伝えながら日本での知名度を飛躍的に向上させ、「単なるテーブルウェアではなくラグジュアリーライフスタイルの一部へ」とその魅力を拡張した立役者であり、1997年にはフランス政府から国家功労勲章シュヴァリエを受章している。
「国内外のいろいろな場所に行き、人に会い、いろんなものを見て、聴いて、触れて、食べて、と貴重な経験をさせてもらいました。アートに関してもそう。勉強というよりも、目を見開かせてもらったという感じかな。それは幸運だったと思います」と小川さん。智子さんも「いろんな経験のおかげで感性が磨かれた気がします」と話す。
たしかに「幸運だった」のは間違いないだろうが、恵まれた機会を生かす前向きな姿勢や旺盛な知識欲、好奇心があったからこそ伸長した感性であり審美眼であり素養なのだろう。

(写真右)「生活のなかの芸術という意味では、古伊万里も立派な芸術品」と小川さん。10年以上料理を学んだ智子さんも、「この器に盛り付けようと思うと料理のモチベーションも上がります。抜け感もほしいので、最近の作家さんの器も使いますね」。写真左の花器は、かつて陶芸に没頭していたという小川さんの力作。

「大きな赤い絵はウィーンで買ったもので、隣の赤いソファの絵は笹尾光彦さんですね。ホールの絵はパリ在住の水上貴博さんの作品で、東京の自宅で水上さんの個展をさせていただいたこともありました。山本容子さんの版画は和紙のアーティストの堀木エリ子さんとのコラボ作品で、母子像はアフリカのもので……」
これはどちらの? あれはどなたの? と作品や作家の来歴に関する無遠慮な問いにも、丁寧に応えてくれる智子さん。その語り口から感じるのは、作品への愛情だ。
和洋の絵画や版画、写真、ポスター、木彫、陶器やクリスタルの置物等々ジャンルは多様で、作風も重厚なものからモダン、ポップ、プリミティブと実にさまざま。なのに全体が調和して、洗練された空間が生まれている。「自分たちがいいなと思ったものを集めているだけなんです」と智子さん。大切なのは作者や世間の評価などではなく、自分たちの「好き」という基軸なのだろう。「ただ、飾る場所のことはすごく考えます。手に入れてから我が家になじまなかったとなるとつらいですし、作品もかわいそうですから」

智子さんがソプラノ歌手としてステージに立ったのは40代になってから。音学大学卒業とともに結婚し、育児や家事に追われながらも「やっぱり歌うことが好き」と、子どもたちが育ち上がってからレッスンを再開。長年のブランクを埋めるべく「銀座王子ホールでソロリサイタル!」という大きな目標を掲げて邁進し、見事に実現したというタフな一面も。

(写真下)玄関のローチェストはバリ島のアンティーク。夫妻はアジアのものも大好きだという。写真中央は、山本容子さんと堀木エリ子さんのコラボ作で、描かれている人物は小川夫妻に似ている。額装は智子さんのセレクト。「枠の太さや色合いで作品の印象は変わりますよね」

なにより大切なのは
作品の波動が
自分の感性に合っていること

「ジャンルの違う絵でも、好きな作品が発しているものはどこかつながっているというか、やさしさがあると思います。色使いが強くても発するものはやさしくて、すべてから良いエネルギーをもらっているんです」と小川さん。「作品の波動みたいなものが合えばいいじゃないですか」という言葉に、「そうね。自分の感性を信じて、自分に合った波動を大切にすることですよ」と智子さんもうなずく。
東京からの移住を前に多くの所蔵物をやむなく処分し、この家のために購入した絵画は子供地球基金のものが数点だという。子供地球基金は、アートを中心にした活動を行いながら世界中の子どもたちに画材や絵本の寄贈を続けるNPO法人で、各国の子どもたちが描いた絵の販売も支援になっている。
廊下に飾られた子どもたちの絵は伸びやかで奔放で、「子どもの絵って発想が自由で、あたたかくて純粋なのよね」と智子さんもお気に入りだ。

書斎のテーブルはリストアしたインドネシアのアンティーク。愛用の万年筆が置かれているのは100年以上前のバカラ製懐石料理用の鮎皿だそう。テーブルまわりには素敵な小物がいっぱい。ちなみにピンバッジの人物はアンディー・ウォーホル。

週末を過ごす別荘として2014年に竣工した住まいが、夫妻の本邸になったのは2021年春のこと。それまで暮らしていた東京のマンション取り壊しやコロナ禍の影響が重なっての決断だったという。
移住後に購入した絵画は、前述のとおり子供地球基金の作品が中心だが、実は小川さん、アジアや日本のアーティストらを支援する非営利団体ACC(Asian Cultural Council)の日本財団で理事も務めているそうだ。「友人がやっていたのを手伝っていてね」とさり気なく言うが、才能があってもなかなか芸術を生業にできずにいるアーティストに対するACCの功績は大きい。当人は多くを語らないが、書斎に飾られているユニークな日本画、玄関前に置かれた斬新なインスタレーションなど、若手作家たちの飛躍にも小川さんは尽力してきた。
「こちらのわずかなモチベーションで支援できるなら、それほどうれしいことはない。若いアーティストはすごいものを見せてくれるし、その柔軟な発想や好奇心は素晴らしくおもしろくて、とても刺激になるんです」

葉巻は小川さんの趣味の一つ。質の良いキューバ産は入手困難で、「なかなか吸えないので最近はパイプです」。葉巻の保存に欠かせない適度な湿気を維持するヒュミドールはフランスの有名メーカーのもので、さすがの粋なデザイン。

日々を慈しむための
建築、絵画、音楽、文学、料理、
ファッション、自然の造形……

植物が大好きで、東京のマンションでもグリーンの手入れをしていたという小川さん。これほどの庭園でありながらプロに植樹を依頼したのはほんの数本で、約30本のモミジは9年間かけて自身で幼木を植えたものだそう。あちこちに設置された餌場や巣箱も小川さんの手製で、「今年はここでヒナが孵ったんです」と本当にうれしそう。
移住した年の春には、脇役であった20本近いモミジを移植。「良いスペースを与えることで生き返った木はたくさんあります。やっぱり元気になるとうれしいじゃない」と満面の笑み。「のびのびしているのが好き。自由に、そのままを生かしたい」とこれまで剪定はしていない。人へのまなざしと同様に、自然を見つめる目も肯定的でやさしい人だ。
「服装で季節を感じる東京と違って、軽井沢って本当に四季がわかりやすい。落ち葉の絨毯もいいですが、雪景色もいいんです」と智子さん。小川さんが好きなのは新緑の季節。「4月ぐらいから毎朝、木に語りかけていますよ。元気になったね、もうすぐだねって(笑)」  人の手が生み出すものでも、自然が創出するものでもいい。自分が美しいと感じること、好きなものを尊重し、日々の暮らしを慈しむことができるなら、それはきっと幸せだ。

無極庵 MUKYOKU AN

庭先の「無極庵」のサインボードは軽井沢のグランネハントヴァルク・皆木重人さんが製作。レッスン室のシェルフ、テーブルも皆木さんにオーダーしたもの。皆木さんは国内にわずか数名のスウェーデン王国家具マイスター資格をもつ人物。 「無極庵」は、江戸初期に創業した、小川家が営むうどん店の屋号だそう。うどんの味を称賛した僧侶・天海が「うまいもの極まり無し」から「無極」と名付け、大久保彦左衛門が揮毫した扁額も現存。明治になると蕎麦が評判になり、池波正太郎の小説にも登場する名店だった。小川さんは400年超の歴史ある屋号を自身の会社にも用いている。ガラスに刻まれた「無極庵」の文字が軽井沢の自然に映えて美しい。