Volume.38 SPECIAL CONTENTS

向こう三軒両隣り

LOCAL COMMUNICATION

建築家の田中敏溥さんは言う。
「いい家とは、人と街と地球に
やさしい家だと思います」と。
1994年の竣工以来、
住宅雑誌などで幾度も紹介されてきた
地上2階、地下1階の自邸は、
どんなやさしい住まいなのだろう。

向こう三軒両隣り

Architect

田中 敏溥さん

1944年新潟県村上市生まれ。東京藝術大学建築科卒。同大学院修了後、環境設計茂木研究室入所。1977年田中敏溥建築設計事務所を設立。住宅を中心に、ソーラータウンや街づくり、図書館、病院、社屋など多くの設計を手がける。合板から椅子をつくる作家でもある。

※『向こう三軒両隣り』 文・版画:田中敏溥(くうねるところにすむところ12 子どもたちに伝えたい家の本/インデックス・コミュニケーションズ刊)

いい家ができれば
向こう三軒両隣との関係も
きっと、いいものになる

激しかった前日の雨に木々の緑が滴る朝。東京郊外の住宅街は鳥たちのさえずりが思いのほかにぎやかで、大通りの先からは学校の始業チャイムも響いてくる。
小さな箒を手にした田中さんは、自宅前の道路を掃きながら、保育園に向かうお隣さんと笑顔で挨拶を交わす。
「道路掃除は私の日課なんです」
そういえば、田中さんの著書『向こう三軒両隣り』には、掃き掃除は幼い自分の仕事だった、と書かれていた。
子ども向けの家の本である同書には、〈いい家とは、人と街と地球にやさしい家〉とあり、以下の文章が続く。
〈人にやさしい家は、災害から人を守り、健康で、安全で、気持ちをおおらかにさせてくれる、きちんとした くらしを考えた家です。街にやさしい家は、場所のよいところを取り入れ、外とのつながりを考え、隣の家や街を気づかった、その場所にあった家です。地球にやさしい家は、省資源、省エネルギーを考えた、長く住み続けられる、環境を考えた家です。この3つは、たがいに関係をもってつながっています。いい家ができれば、「いい関係の向こう三軒両隣り」ができると思っています。〉

緑を縦に配することで、テラスは庭の役目を果たす。家族に潤いをもたらし、外からの視線を柔らかく遮りながら、街並みへの気遣いにもなっている。竣工から27年、車寄せの上部から2階テラスへ伸びるのは、ワイヤーフェンスに絡ませたムベ、ジャスミン。「ムベは放っておくと暴力的に伸びる」ため、娘さんがきちんとカット。ヒイラギモクセイの生け垣を手入れするのは田中さんの役目。記念樹のヤマモミジ、アベリア、ユキヤナギなどの植栽もいきいき。

「隣地が変化することはあっても道路は変わらない。だから道路を無断でいただく(笑)というか、借景ですね。その場所の特殊性を調べて、変わるもの、変わらないものを把握し、変わらないものを計画に組み込むことが大事。道幅を庭の一部として視覚的にもらうことで、2階南開口部からの視界は広がります」

大きな暮らしを叶えたのは
配分の緩急と
もったいない精神

「人と街と地球にやさしい家」の好例が田中さんの自邸だ。
「大きな家族室。独立した客間。ちょっとした書斎。十分な収納。大きな緑のテラス。街を気遣った家。以上を満たした経済的な家づくり」という7条件を取り入れながら、「24坪弱の小さな敷地に、家族4人の、街に気配りされた、大きな暮らしのできる家」が実現した。
たしかにコンパクトではあるが、田中邸に窮屈さは感じない。身体も気持ちも縮こまらず、なんだかゆったりできるのだ。「そこは緩急だから」と田中さん。「建築家の仕事は、限られた条件下、つまり物理的、経済的、法的に制限されるなかでの配分作業。大事なところに大きく配分する勇気と、もったいないという気持ちで設計すること」
たとえば、暮らしの中心になる家族室は広く、天井も高く、開放的に。一方で、地階の天井高を抑えたり、水周りはコンパクトに集約したり、玄関を省いたり……。  そのバランスが上等だと、玄関がなくても不自由はない。広い土地がなくても、「縦に広がる緑の庭」は実現する。

玄関をつくることでゆとりがなくなり利便性も劣ると判断して、玄関がない家に。帰宅後は、大容量で出し入れしやすい下足入れに靴をすぐしまう。広い玄関ポーチに出ているのは下駄だけ。当然、通りからの視線や風の吹き込み方などを十分考慮したうえでのこと。「寒い土地なら問題ですけど、東京なら大丈夫だろうなと。不自由なのは台風のときぐらいです」 下_リビングのベンチソファの下はキャスター付きの収納で、ベンチの背板はテーブルにもなる。一見しただけではわからない収納が随所に。

南側の腰窓は、椅子に座ったときにサッシの上下枠が隠れ、より良い眺望になるよう計算されている。腰窓の下は全面収納。階段手すり壁はぐい呑が並ぶ棚、階段仕切り壁はオーディオ用の棚に。照明は田中さんがワーロン紙で製作したオリジナル。

豊かな時間を育む
家族室は
どんなときも心地よく

リビング、ダイニング、キッチンがひとつになった家族室は、東の開口部からテラス越しの緑が目に入り、南の開口部からは視線が外へ抜けて、床面積以上の開放感がある。
高さも幅も絶妙な仕切りの向こうはキッチンで、壁面にシンクやカウンターが並び、さらに洗濯コーナーが続く。「お勝手をしながら洗濯ができてアイロンがけもできる。本当にラクです」と妻のヒロさん。ほとんどの時間を、この家族室で心地よく過ごして いるそうだ。
隅々まで細やかに配慮されているからこそ、落ち着いた雰囲気がありながらモダンさもあり、高い機能性と相まって、あらゆる生活シーンに馴染むおおらかな空間になっている。
土鍋でごはんを炊く。食卓に旬の野菜や果物を並べる。毎日ぬか床を世話する。好みのお茶を丁寧にいれる。「おいしいね」をきちんと伝える。テラスの植物に手をかける。たわいない会話を交わす。好きな本を手に自分の世界に没入する……。
「大きな暮らしのできる家」ではごく当たり前の、けれどとても豊かな日常が営まれている。

大開口部のサッシも既製品を利用してコストを抑えた。テラスのグレーチングは工場床用、亜鉛メッキドブ付けでサビ防止。住み始める前は「洗濯物干し場がないのは悩みの種だけど、まあなんとかなるでしょ」と思っていたヒロさん。折りたたみ式の物干しをテラスに置くことで、不便は感じないという。ここで育てた大葉や山椒は「ちょっとあるとお魚なんかにいいのよね」と食卓に。

環境設計の広い視野と
場の特性を読み解く力で
より良い景観をつくる

中学生の頃から建築家に憧れていたという田中さん。高校卒業後は日本大学理工学部建築学科夜間部に入学し、昼間は大林組研究室の臨時職員として働き始めた。1964年、東京五輪を目前に控えた春のことだ。建設中だった国立代々木競技場の現場に通ううちに、設計部から出向で来ていた東京藝術大学建築科出身の方と親しくなり、藝大への興味が募って受験を決意。どれほどの難関かも知らぬまま、仕事と受験勉強を併行して見事に合格し、藝大に入学。さらに大学院に進み、吉村順三研究室に学んだ。
「吉村先生は、建築の法規は最低限のルールでしかない、それを守るだけでどうする、という人でした。つまり、人間や街のことを考えた素晴らしい建築をつくれば、絶対に法律以上の ものになる、と」

カウンター上部の扉を開けると水切りや換気扇が。機能的で視覚的にもすっきり。リビングとの仕切り壁は収納棚にもなっている。陶芸を嗜む娘さんの器も食卓に。ちなみに、食事中の会話は「野菜を先に食べて、とかつい注意ばかりしてしまうの」とヒロさんは笑う。

大学院修了後は、茂木計一郎藝大助教授(当時)の環境設計茂木研究室に就職。ここで、「建築と建築の〝間〟の大切さ、環境設計、景観計画という大きなことを学んだ」。
独立したのは6年後のこと。「最初に設計したのは友だちの家。金はないけどやってくれないかと頼まれて」  以来、多くの住宅を手がけるようになった。 「街の景観、環境の質を高めていくために、プライバシーを保ちつつ仲良くできるような家づくりをしたい」と志向し、「小さな敷地、条件が厳しいほど、場所の特性を読み解くことに時間をかけて家づくりに反映させる」ことに注力するのは、そうした背景があってのことだった。

「うちで高いものは、青森ヒバのテーブルと玄関ポーチの大谷石だけ(笑)」。大きなテーブルは、司書を引退後も図書館関係のNPOに携わるヒロさんの作業場にもなっている。工作少年だった田中さん、実は椅子の作家でもある。一枚の合板からつくり出す椅子は「椅子づくり専門の人からは邪道だと言われる」そうだが、作品が美術館に収蔵されたり展覧会が開催されたりと評価は高い。

著書『向こう三軒両隣り』は文章以上に木版画に苦労した。長年にわたり年賀状用につくっていた版画も多数あり、版画の展覧会が開催されたことも。田中さんや家族が彫った版画、藝大時代の友人の作品など、家のあちこちに素敵なアートが飾られている。学生時代から旅が好きで、古い街や道を大切にするヨーロッパの人々の姿が強く印象に残っている。旅先では必ず街並みをスケッチするそう。

設計への熱意の源は
愛と勇気
誇りと責任

長年にわたり愛用しているという手帳には、進行中のプロジェクトのスケッチやアイデアが描き込まれている。通勤中の電車内で開くことが多く、電車に揺られる時間は創造や思索の大切なひとときだという。
「私は普通の家をつくる。でも常に革新的にはつくりたい。だから手帳に書いておくんです。人間は忘れちゃうものだから」と開かれたページには、〈家は社会とのつながりのなかで考え、人とのつながりのなかでつくる。人と街と自然と仲よくする家をつくっていきたい。設計とは特殊性を軸に個別性に応え、普遍性を追求していく作業である。常に革新的に普通の家をつくる〉とあった。
さらに、手帳の表紙裏には〈愛と勇気〉〈誇りと責任〉の文字が。「いいトシして恥ずzかしいかな……」とつぶやく 田中さんの言葉を、「いいえ、まったく」と全力で否定した。
50年のキャリアをもち、全国で150以上の作品を手がけた人の内奥にある想いは、眩しさを感じるほどに真っ直ぐでひたむきだ。  設計への熱意と、経験に裏打ちされた冷静さを携えて、物腰柔らかなベテラン建築家のやさしい家づくりは続いていく。

コロナ禍以降、地下の書斎で仕事をする日が増えた。斜線制限と掘削工事の予算を考慮して地下の天井高は低く、なおかつ構造材や1階浴室の排水管をむき出しに。「これは自分の家だからできること。よそでやったら叱られます(笑)」というが、その無骨さも悪くない。家づくり7条件のなかで最も苦労したのは「6項目を満たしながら経済的に」だったという。たくさんの書籍や資料、スケッチブック、年3冊のペースで描き終える愛用の手帳、自作の椅子など、田中さんの世界を構成するものがコンパクトな書斎にぎっしり詰まっている。